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 備後絣のいわれ
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備後絣のいわれ  日本に於ける棉作の起源は詳かでないが南蛮船の渡来、異国交易の相当ひんぱんであった時代、足利期〜徳川初期時代に紅毛南蛮人によって伝えられた備後地方の棉作の歴史を調べてみると今を距る三百年前備後の国福山城主水野日向守勝成公が領内の産業開発のため沿岸部一帯に棉花の栽培を奨励したのに始まったものと伝えられる。
 その頃、広島県福山市芦田町下有地谷迫の人で富田久三郎なるもの手挽糸をもって縞木綿の製造を始めたが間もなく絹織の方法を綿布に応用して「浮織」を作った。浮織を完成した久三郎は或る日備後府中の太物商中田屋万兵衛の番頭吉助より絣織の製造を勧められたが絣の名を初めて聞いた久三郎は絹織物の「きし島」という浅黄絣の製品を見て初めて見る絣の美しさに魅了された。
そして立ち所に絣の研究を決意し、早速手挽糸を用い経絣部分を竹の皮で巻き坊寺村(現駅家町大字坊寺)の川の上鈴岡与平という人に染色を依託した。
 こうして最初の絣糸が出来たのである。久三郎はこれを井桁絣に仕組み苦心の末試作品を織り上げた、之が久三郎にとっては正に創意創作の木綿絣であった。
 その後種々改善を加え「時計枠」という紡糸器を案出して紡糸の再整を図ったり絣の染色方法を研究したり細糸紡糸法を研究する等百方苦心の結果、益々巧緻な絣を織出するようになり、その絣織は世間から非常な賞讃を受けた。それは嘉永六年の頃である。
かくして生れた絣は次第に量産に努力し大阪へ初めて持参したのは明治の初年であって大阪市場に現われた最初であった。
 備後絣といっても、知らない人があるだろうが、これは世に言う鄙(ひな)にまれなる乙女の着る紺絣だ。別嬪の草刈娘、別嬪の早乙女などは無論のこと、狐なんかも、美人に化けるときには、物識りの狐なら必ず備後絣を着ているということだ。
         井伏鱒二氏の小説『木靴の山』より
”ガチャ万”この言葉は、第二次大戦後一時、福塩線の福山〜府中間の沿線地方でいわれたもので、織物を一織りするごとに多くの利益があったことをさしていました。備後絣はそうしたこの地方の織物の中で代表的なものです。
 備後絣と九州の久留米、愛媛県松山地方の伊予絣を日本三大絣と呼んでいますが、戦後備後絣は年産三百万反(一反は十一m余)にも及び、他の二つの絣を合わせたものの数倍も生産され、女性の作業着として、日本国中に売られました。
 一時三百万反も生産された備後絣も、化学繊維や流行の変化により、生産は減りましたが、今ではウール絣も生産されるようになり多くの人に愛されています。