年代
 明治前
 明治時代
 大正〜
  昭和20年終戦
 昭和21年〜
  昭和30年
 昭和31年〜
  昭和40年
 昭和41年〜
  昭和55
 昭和56年〜
  現在
  年     内   容
宝政2年 高価衣服の着用を禁止する。(徳川幕府)
宝政12年頃 築後国御井郡通村井上でんは十二、三才にして白糸餅を作り後
に霜降霰織を作りこれが端緒となって久留米絣を生む。
文政5年 伊予国西垣村鍵屋清七の娘カナは金比羅参詣の砌り久留米絣を
着た人を見て伊予絣を発明した。
武蔵国多摩郡村山に於て村山絣が起り一名川越絣と云って所沢
の市場に出したので所沢絣の名を生じた。
文政11年
5月5日
備後絣の始祖富田久三郎翁は備後国芦田郡下有地字谷迫に於て
富田又右衛門長安の二男として出生する。
弘化元年 福山藩主阿部侯は倹約法令を発布して庶民に絹織物の着用を厳
禁した。
富田久三郎浮織の研究を始める。
嘉永6年

富田久三郎は府中町太物商中田屋万兵衝から絹織物「キシ島」
と云う浅黄絣の製品を見せられ、手引糸を用いて経(タテ)糸
を竹の皮にて括り井桁絣(巾五ツ)を作り中田屋万兵衛に販売
した。これが抑々備後絣の始りである。
文久元年 唐糸(洋棉糸)四十番手半丸を入手後に三十番手を入手し谷迫
絣又は唐糸絣、有地絣と名付けて製織。
次第に販路を拡充し文久絣と名付けて、文久絣の出現は人々に
驚異と珍奇の感覚を与へて歓迎され遠く石州まで売り出した。